Ado的スポーツプロモーション
先日,「交わる音楽,交わるスポーツ(2022.01.12)」で,耳を塞がないイヤフォンを購入したことを書いた.それで流す曲は,その時々のコンテクストや気分や体調で選ぶようにしているのだが,Adoは常にプレイリストの上位に入っている.
コアファンの椎名林檎に似ているということもあるかもしれないけれど,Adoのディストーションの効いた発声や縦横無尽なファルセットは,パンクロックにも演歌にも聴こえるし,民族音楽にも動物の鳴き声のようにも聴こえる気がして,その,誰にもコピペできない唯一性や孤立感が心強くて,勇気をもらえる.
メジャーデビュー曲の「うっせぇわ」は再生回数2億回を突破し,小さな子どもたちが口々に「うっせぇわ!」と言い出して問題視されて流行語大賞を取ったくらいだから,この曲や彼女の声の人を惹きつける力はすでに証明済みだ.
以前から,素顔を出さないアーティストが増えている.
そういうスタイルは,歯科医のGreeenや頭がオオカミのMAN WITH A MISSION以降,特にYoutube配信からブレイクするアーティストに多いけれど,とうとう姿を全く見せないところまできたか,という感じだ.
しかし,よく考えてみたら,歌手が不特定多数の人前に歌う姿を見せられるようになったのはテレビが普及してからのことだから,ほんの60年前までは,(コンサートに行くコアファン以外の)ほとんどの人は,(レコードのジャケットで顔や姿は見ているけれど)歌っている姿を見ずに音楽だけを聴いていたはずだ.それ以前はさらにそうだ.
Ado自身が「容姿に左右されずに歌を聴いてほしい」とどこかの報道番組のインタビューで言っていたが,1960年以前はすべての歌手がそうだった.例えば,1950年のヒット曲をYoutubeで検索すると,50年当時の映像はほとんど出てこない.美空ひばりの「東京キッド」だけは彼女が主演した同名の松竹映画のワンシーンが出てくるが,これは映画館に行かないと見られないものだった.
このことは,アートや文学の世界でも同じことが言える.作品は世界を流通するけれど,描き手の顔や姿を見たことのある人はほとんどいない.ましてや描(書)いている姿を見ることはまずない.
それが,口伝えからラジオ,映画,テレビ,インターネットへと情報通信技術が発達したことで送受信できるデータ量が増え,個人へ直接送受信できるデータが音だけから,映像にまで拡がった.わたしたちは今や音楽を映像とセットで聴かされていると言ってもいい.アーティストや小説家も姿を晒している.絵画の制作過程をタイムラプスでネット配信する人すらいる.
そんな時代だから,情報量をあえて圧縮して音楽だけを届けようとするカウンターカルチャーが生まれるのは自然現象だろう.Adoの声には,音楽が音楽として孤立的に存立できる可能性が見出せる気がする.
スポーツはどうだろう.
かつては,間接的な試合観戦はラジオだった.それがテレビになり,インターネットになり,近い内にVR視聴になる.プレーヤーのリアルタイムな生体・心理情報も同時に取得しながら観戦することもできるようになる.
そんな時代だから,あえて試合観戦のための情報通信量を圧縮したら,(音でしか観戦しないというのは選択肢にならないだろうから)直接観戦に戻るしかない.Ado的スポーツプロモーションを妄想すると,肉体の躍動とパフォーマンス,ゲーム展開だけが純粋に脳に飛び込んでくるかもしれない.
私の誕生日にAdoファーストアルバムが発売されることを知ったので,この記事をしたためた次第.