陽と陰,ではない
世の中には,陽と陰,光と影,明と暗,吉と凶,善と悪,正と負があるとよく言う.
人はよく「我こそが正しい」と考えがちで,結果的に「相手は間違っている」と考えるに至る.
類は友を呼ぶシステムに支配されているSNSのようなネットワークでは,「我こそが正しい」という投稿に近い意見の人が集まるようにできているから,いつの間にか「我々こそが正しい」,「我々の意見こそ社会一般通念だ」と思うようになる.その成れの果てが,先のアメリカ合衆国大統領選挙の不正疑惑の共有と議事堂選挙事件だ.
二項対立の単純化する思考法は分かりやすいし,どちらかに与する立場にとっては耳障りはいいが,社会的な事象はそれほど単純ではない.多様な当事者が登場するまちづくりに際しては特にそうだ.
光の当たっているところ(つまり自分が正しいと考えていること)には,どこかに光源があって,その光源は自ら作り出しているものだ.世の中すべてを常に明るく照らす光はまぶしくて仕方ないもので,人間はそんなところで生きてはいけない.必ず影は生まれるもので,夜も必要だ.
赤や青や黄といった原色の明るい色ばかりでは目がチカチカするから,暗めの中間色も必要だ.色々な色がある方がカラフルだ.
そう考えると,世の中はグラデーションで,絶対善と絶対悪の二極ではないと思うに至る.
しかし,私には一定の考えがあって,それに縛られている.他者と対話すると考えの違いがくっきり見えてくる.人は自分に甘いから,私が陽で,相手が陰のように感じられる.この陽と陰の認識に至るタイミングに落とし穴がある.
考えの違いはあって当然で,どちらも正しさを含んでいる.
陽と陰ではなく,XとYだと考えることができれば,Zを発見できるかもしれない.
ディベート(賛成か反対か)でもなく,ディスカッション(正解の追求)でもなく,ダイアログ(各々の考えを拡張し深める対話)が必要だ.
冬空に光る紅葉鮮やかな山をみて,そう感じた.