定点観測

北京パラリンピックとウクライナ侵攻:スポーツは祈りの力を持つか?

制度的なアプローチで答えが出ないのであれば,スポーツとは社会の中でどういう存在か,を根本から考える必要がある.
北京パラリンピックのRPC・ベラルーシ選手の参加除外については,ドーピングといったルール違反による除外とは次元が異なる.
(一般市民の命が力によって奪われることがないという意味で)平和な状態を破綻させる国や地域,集団が軍事行動しているような,人類にとって危機的な状況において,それでもなおスポーツは行われるべきか?軍事行動している国・地域の人はスポーツをする権利を認められるか?という問いだ.

このことは,「スポーツの空間は,共感への祈りが満ちる空間になり得るか?」を問うているのではないかと思う.

RPC・ベラルーシの選手が出場すると,ウクライナをはじめとした今般の戦争に反対する選手が出場を辞退したり,大会に関わる各国のスタッフやメディア,スポンサー企業がザワザワと混乱する事態になることを恐れての参加除外の措置だったとすれば,スポーツでは平和(というより停戦)に向けた人種や国家を超える一人ひとりの共感は生み出せない,ということを表明したことになりはしないだろうか.

3月4日の参加除外を発表した記者会見で,IPC・パーソンズ会長は「選手たちの活躍によって、スポーツが人々をひとつにするということや,すべての人が社会に参加できるという強いメッセージを送りたい.(中略)今夜の開会式からはスポーツ以外のことに注目するのをやめ、競技場で選手たちがすることに注目してほしい」(NHK報道)と発言しているが,北京パラリンピックでひとつになれる人々には,参加除外されたRPCとベラルーシ選手とロシアによるウクライナ侵攻を容認する人たちは含まれていない.スポーツは共感や連帯を生むどころか,分断を大きくしたと言えるかもしれない.

本来,スポーツは人間がその肉体に宿した運動能力を競い合う遊びだ.
オリンピック・パラリンピックは人類が到達できる能力の最高地点を表現する場であり,世界各地から人類代表が一堂に会して競い合い遊ぶ姿を世界中にみせることができるという意味で,人類にとって重要な機会だ.

代表選手の選出に関わるルールやスポーツ統括団体の組織構造上,国・地域という構成単位が必要になるから,国対抗戦の様相を呈することになってしまっているものの,オリンピック憲章に,

「オリンピック競技大会は,個人種目または団体種目での選手間の競争であり,国家間の競争ではない」

『オリンピック憲章』

とある通り,本来は人間個人が能力を競い合うだけの場だ.
その純粋さにこそ,人種や国家等を超えた共感や連帯の可能性が見出せるわけだが,ウクライナの選手がロシア(RPC)の選手に対して抱いてしまう印象や母国への思いは,それはそれとしてあるだろう.わたしたちの社会や人間に対する意識は,スポーツが持つ純粋さほど単純ではいられない,ということだ.

しかし,それでも私は,スポーツをしている時だけは,国家というバックグラウンドを捨てて,競い合うことのできる仲間になれないものだろうか,と思いたい.
スポーツの純粋さは,無菌室のような空間だけに成立するのでは意味がないし,そんな空間は存在しない.社会の混沌の中にあって初めて意味を持つはずだ.
そうだとすれば,国家間の戦争が勃発している今だからこそ,それをオリンピック・パラリンピックが引き受け,むしろ仲間になれる姿を全世界に見せる方が反戦の意思を表現できるのではないだろうか.

アスリートは(致し方なく)国家を背負っているからこそ,国家の意思とひとりの人間の意思は異なることを表現できるのではないだろうか.厳しい統制下にあるとされるロシア国内でも反戦運動が起こっているように,北京パラリンピックが,人類は政治経済的立場を超えて共感できるということを示す機会になっていたら,スポーツとオリンピック・パラリンピックの人類社会にとっての価値は根本に立ち返って大きくなっていたかもしれない,と思う.

ただ,そんなことをするには,RPCとベラルーシの選手たちとスタッフとその家族の大会後の保護も必要になるだろう.彼ら彼女らが難民化するかもしれない.そうならないようにするのが,オリンピック・パラリンピックをめぐる国際協調プラットフォームとしての国連であり,国際パラリンピック委員会ではないだろうか.

髙岡 敦史

WRITTEN BY

髙岡 敦史
スポーツまちづくり会社・合同会社Sports Drive 社長 岡山大学大学院教育学研究科 准教授、博士(体育科学) スポーツ経営学を専門とする研究者であり、スポーツまちづくりの現場に多く参画している。近著に『スポーツまちづくりの教科書』(2019年、青弓社)。