定点観測

地球は近くて,他人は遠い?

暑い….
梅雨明けもまだなのに,この暑さはなんだろうか.
このまま夏真っ盛りになったら,溶けそうだ.

・・・と毎年思っている気がする.
でも,すぐさま「地球温暖化?」と思わないのは,ある一日の気温から地球環境全体の大きな変化を理解することはできないと分かっているからだけど,それでも環境異常を感じてしまうのは私の身体がまだ暑熱順化できてないからだろうか.

環境保護の運動は,日本では足利鉱山の鉱毒問題が「公害」として認識されたところに源流があるらしい.つまり,産業振興が私たちの健康的な生活を脅かすようになったことで環境の現状が問題化されたということだ.

そして,今の私たちは「地球環境は守るべきもの」という考えを共有している.
共有できている理由は,「わたしの健康を脅かさないでほしい」という個人的な願いというより,「子どもたちが生きる未来の地球が明るいものであってほい」という社会的な願いにあるだろう.

願いが個人から社会へ拡がったのは,なぜだろう.
□ マスメディアが世界共通の問題を一斉に取り上げるようになったから?
□ インターネットで世界各地の情報を一瞬でつかむことができるようになったから?
□ 異文化理解が進み,生活文化が異なる外国人への共感性(他者が感じるように感じることができる可能性)が高まったから?

いずれにしても,私たちの視野は「今のわたし」から「未来の地球」にまで広がり,その結果,想像の対象としての地球は小さくなったのだろうと思う.人と地球との距離が縮まったと言ってもいいかもしれない.

人と人の距離はどうだろう.
他者に対する視野は広がっているだろうか.

世界中の人がネットを通じて交流できるこの時代に,資源や宗教をめぐる争いは絶えず起こっている.国家主義化する国や独裁国家も増えつつある.「今のわが国」のあり方が「今の他国」と「今の世界」のあり方にどういう影響を及ぼすか,想像できない(あえて想像しない)のだろう.「未来の地球」を想像することができるようになっているはずなのに,「未来の世界」を想像することはできないのだろうか.

個人と個人のレベルでも同じだ.SNSで誰もが個人的意見を世間に訴えることができるようになった.しかし,他者を傷つける言葉も溢れるようになった.「今のわたし」から発する言葉が「今の他者」にどう受け止められるか,を想像できないのだろう.「未来のわたし」と「未来の他者」,その集合としての「未来の世界」の想像など,ほど遠いように思える.

未来の世界を想像して創造していきたいが,未来に関するわたしの個人的想像は妄想かもしれない.
また,未来の想像(妄想)は人によって多様にあり得てしまう.わたしと他者が想像する未来が互いに相容れない(わたしの想像する未来が他者の想像する未来を否定する)ことだって当然ある.
未来の想像をより確からしいものにするためには,未来の個人的想像をすり合わせることが必要だ.そのためにすべきことは,できるだけ多様な他者と対話を積み重ねることだ.(参考:K.J.ガーゲン&M.ガーゲン『現実はいつも対話から生まれる』

スポーツまちづくりとは,まさにそういうことだろう.
わたしにとっての未来のスポーツとまちは,他者の未来のスポーツとまちは,当然違う.
だからこそ,語り,対話する.(この『定点観測』は語りになっているといいと思っている)

対話もせずに「これが正解だ!」と訴えることのずーっと先に独裁国家が出来上がる.
スポーツまちづくりの未来を民主的に創造していくために,対話の場は大切だなぁ,と思った昨日の「第79回おかやまスポーツプロモーション研究会」だった.

髙岡 敦史

WRITTEN BY

髙岡 敦史
スポーツまちづくり会社・合同会社Sports Drive 社長 岡山大学大学院教育学研究科 准教授、博士(体育科学) スポーツ経営学を専門とする研究者であり、スポーツまちづくりの現場に多く参画している。近著に『スポーツまちづくりの教科書』(2019年、青弓社)。