定点観測

スポーツが本当は見せたい未来

パラスポーツは,障害を持った人でもできるように設計されている.だから,障害を持っていない人でもできる.そういう意味でインクルージョンだ.
スポーツをインクルージョンにしていこうという取り組みは,健常者も参加できるパラスポーツ大会の開催や「ゆるスポーツ」の開発に見られる.
いずれも,ゆるくて楽しい場だが,見ている未来は今とはまったく違う世界だ.

スポーツは,ゲームの構造(どうしたら得点できるか,得点したり得点を防いだりするのにどういう技能が必要か,など)とルールを相手と共有し,今持っている技能を出し合って,その優劣を競い合う.

競い合いは,お互いが今持っている技能を出し切ることで成立する.
一方に手加減が加わると,それはもう競い合いにならない.

しかし,今持っている技能には差があるもので,手加減しないと一方的なゲーム展開になることがよくある.(高校野球の県予選一回戦では,甲子園常連校が公立校を相手にコールド勝ちすることがよくある)
だから,競技スポーツでは,トーナメント制にして徐々に強い選手・チームだけが残るようにしているし,体重別や競技力別などのクラス制を採用している.
障害者と健常者が,既存の健常者向けの競技スポーツ種目のゲームをしたら,競い合いどころか,障害者はほとんどプレイできないだろう.その逆も真で,パラリンピアンと一般健常者がそのパラスポーツ種目のゲームをしたら,一方的なゲーム展開になるだろう.どちらも,楽しめない.

つまり,スポーツがインクルージョンなものになるためには,共有すべきゲームの構造とルールを,肉体機能の差が限りなくなくゼロになるように工夫しないといけない,ということだ.

ボッチャという競技は,ただボールを狙ったところに投げるか転がせばいい.腕や手指が動かなくても,あるいは欠損していても,足で蹴って投球してもいいし,ランプと呼ばれるスロープを使って押し出して転がしてもいい.
ただそれだけだから,肉体機能の差は問題にならない.

わたしたちは,障害者を肉体機能のとても小さい弱者と見て,守る対象だと考えるように教育されてきた.その考え方をスポーツに延長すると,大きく手加減して一緒にスポーツをしているように装うか,あるいは特別なスポーツ種目を用意して障害者だけにやってもらう,ということになる.

しかし,パラスポーツ大会やゆるスポーツのみる未来は全く違う.
障害者と健常者が,ひとつのゲームの構造とルールを共有して,今持っている技能を出し切って競い合う体験をしたとき,肉体機能の差は,現実にあるものではなく,わたしたちの考え方の中にあったことだと分かる.

スポーツは本来,インクルージョンなものになるはずだ.
人種や国籍,宗教,生活文化の違いはもちろん,性別も年齢も超えられるに違いない.そういうスポーツが一般的になったら,世界は平和に向けて大きく前進しているはずだ.そして,その時,「パラスポーツ」や「ゆるスポーツ」という言葉も,「〇〇人」「△△教信者」「障害者・健常者」という人のカテゴリーもなくなっていることだろう.

髙岡 敦史

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髙岡 敦史
スポーツまちづくり会社・合同会社Sports Drive 社長 岡山大学大学院教育学研究科 准教授、博士(体育科学) スポーツ経営学を専門とする研究者であり、スポーツまちづくりの現場に多く参画している。近著に『スポーツまちづくりの教科書』(2019年、青弓社)。