定点観測

「五輪に命をかける」の怪①

競技スポーツは,よく「戦い」として表現される.
「負けられない戦い」,「死闘を繰り広げた」,「オリンピック戦士」といったものだ.学校でも「文武両道」と部活動を「武」と表現する.

「戦い」とは勝ち負けを競い合うことだから,競技スポーツは戦いだ.いよいよ東京五輪の熱戦が始まろうとしている.
ところが,「必死に頑張ってきます」という選手や「選手たちは命をかけて戦っている」とまで言い出す人が出てきた.ここでの「戦い」はまるで戦争だ.
つい最近,お昼の報道バラエティ番組でも,某元JOC参事や番組司会者が,東京五輪の開催可否の議論をめぐって,出場予定の選手たちが命をかけて4年に一度の戦いに挑んでいるという趣旨の発言をしていた.
出場した選手たちは,不甲斐ない成績だったら死ぬんだろうか?
そんなわけないのだが,その割には「命をかける」という表現をあちこちで聴く.

確かに,古代オリンピックに採用されていたパンクラチオン(現在の総合格闘技のような種目)では死者も出ていた.しかし,現代においては試合での負けは実際の失命を意味しないし,試合に負けたことで殺されることが事前に決まっている競技もない.
例えば,コロンビアの元サッカー代表のアンドレス・エスコバルは,1994年のサッカーW杯アメリカ大会本戦でオウンゴールしたことで敗戦(1次ラウンド敗退)の原因を作ってしまい,母国帰国直後に射殺されたが,同じような危険がすべてのアスリートにあるわけではないし,あってはならない悲劇として今に受け継がれている.
また,1964年の東京オリンピック・マラソン代表の円谷幸吉のように,母国開催にも関わらず3位に低迷したことへの批判から自死してしまったとされるケースもあるが,実際には,周辺の環境変化やその当時の社会風潮など様々な要因が絡み合っていて,期待外れの成績がすぐさま死を要求するわけではないし,これもあってはならないことだと共通認識されているだろう.

つまり,スポーツに「命をかける」とは,それくらい真剣に向き合うべきであるという考え方の比喩表現だと考えられる.そのような考え方は,スポーツまちづくりにどういう影響を与えているだろうか.

このことを考えるために,次の2つのことを考えていきたい.
①スポーツにおける勝ち負けの競い合いにおける精神性(真剣-おふざけ,真面目-不真面目,誠実-不誠実,など)はどうあるべきか?
②競技スポーツは命をかけるほどのものだという考え方は,スポーツの普及や強化にどういう影響を与えるか?
③競技スポーツは命をかけるほどのものだという考え方は,スポーツまちづくりにどういう影響を与えるか?

次回以降,順を追って考えてみたい.

髙岡 敦史

WRITTEN BY

髙岡 敦史
スポーツまちづくり会社・合同会社Sports Drive 社長 岡山大学大学院教育学研究科 准教授、博士(体育科学) スポーツ経営学を専門とする研究者であり、スポーツまちづくりの現場に多く参画している。近著に『スポーツまちづくりの教科書』(2019年、青弓社)。