定点観測

「五輪に命をかける」の怪②—競技スポーツの精神性(後)

スポーツは本来的に遊びで,「『五輪に命をかける』の怪①」で述べたように,命をかけるようなものではない.スポーツに「道の精神」を求めるのも,競技成績に生活の糧の根拠を求めるのも,「スポーツは遊びである」という考え方の上にあるべきではないだろうか.

勝ち負けは,その時に発揮される技能の差で決まる.相手と直接関わる種目では,オフェンスの技能とディフェンスの技能の高さの差で得点の可否が決まる.そういう技能の試し合いが「試合」だ.わたしも相手もトレーニングしているから,技能の試し合いはどんどん難しくなる.そこが楽しい.
このことは子どもたちの遊びにも同じように見られる.子どもたちは,最初に決めたルールに飽きたら,どんどんルールを難しくしていくものだ.ブランコを座って漕ぎ始めた子どもが,やがて立ち漕ぎをし始め,高さを競い始めて,その内,靴を遠くに飛ばし始める.ブランコ漕ぎの技能向上に伴って,技能の試し合いは高度になっていく.そこが競い合いの楽しさだ.
競技スポーツも同じ発展を遂げてきた.アスリートの技能が高まるに連れて,競い合いを楽しいものにするためにルールを変えてきた.

子どもたちは楽しむことに真剣だから,大人が指導しなくても一心不乱にブランコ漕ぎを練習するし,一緒に遊ぶ友達が下手くそで競い合いにならなければつまらないからコツを教える.ルール違反は楽しさを失わせる行為として制裁(「一回休み」「もう遊んでやんなーい」など)が下される.子どもたちは遊びの楽しさの追求に真剣で,誠実だ.「道の精神」の真髄も,真剣さも誠実さも,子どもたちの遊びの中にこそありそうだ.

競技スポーツの世界はどうだろう.
確かに,古来より競技スポーツに闘争の性質はある.古代オリンピックのパンクラチオンなどはまさに闘争だった.しかし,人ひとりの命の価値が重たくなった現代において,競技スポーツの闘争的な精神性は,遊戯的な精神性にその優位性を譲るべきだろう.そして,スポーツがエンターテイメントとして鑑賞の対象になっている今日,闘争性は演出されるもののひとつであり,ゲームとしての遊戯性が最も重要な演出対象になるだろう.
プロ野球の演出も,ひと昔前までは投手と打者の「一騎打ち」という戦いの演出が主流だったが,現在ではこれまでの様々なデータに基づいて分析的に投手と打者の勝負を観るスタイルが出てきている.eスポーツはまさに遊戯性の演出が中心だ.
今後は,スポーツの競い合いには「真剣に遊ぶ」という精神性が強く求められることになるだろう.

「五輪に命をかける」の怪③-競技スポーツの普及・強化(前)へ続く)

髙岡 敦史

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髙岡 敦史
スポーツまちづくり会社・合同会社Sports Drive 社長 岡山大学大学院教育学研究科 准教授、博士(体育科学) スポーツ経営学を専門とする研究者であり、スポーツまちづくりの現場に多く参画している。近著に『スポーツまちづくりの教科書』(2019年、青弓社)。