定点観測

9.11から20年,まちづくりの基本原理がそこにある

その瞬間,出来の悪い私は大学5年生で,バイト先のスナックでその光景を見た.
いつもはカラオケに使うテレビなのだが,なぜかその日は地上波のニュースがついていた.
厨房でチャーハンを作っていただろうか.店内が騒がしくなり,その直後,お店のママさんに「すごいことが起きてるよ!おいで!」と呼ばれて,店内に出てテレビを見た.一機目がワールドトレードセンターに突っ込むリプレイ映像が流れていた.

いつもなら下世話にガヤガヤしている空間だった店内も,誰もがテレビに釘付けで,2機目が突っ込むまでの15分ほどの時間が永遠に感じられるほど静まり返っていた.「世界が変わった…!」とそこにいる全員が感じていたと思う.さらにそのおよそ30分後,米国国防総省にも3機目が突っ込んだ.その瞬間の映像が放送されることはなかったが,この日,世界は明らかに新しい時間軸に乗ったと感じた.遠く離れた国にいながら,眠りが浅かったことを今でも忘れられない.

あれから20年が経った.

欧米諸国は今でもテロのリスクに晒されている.そして,9.11をきっかけにアメリカによって打倒されたタリバン政権が,いつの間にか政権を奪取している.

教義とはいえ,無作為に人を傷つけるテロ行為は許されるものではない.
しかし,テロを正当化させる状況はテロ首謀者だけが生み出したものではないと思っている.
サウジアラビアとの石油資源をめぐる関係,その長い歴史の中で搾取され,文化的に変質させられてきた人々の存在は,アメリカを中心とする近代国家的民主主義と経済原理主義を信奉する国家群の「これが唯一絶対的に正しい」と支配する植民地化的な我が物顔を打倒すべき,という運動を生むには十分だったはずだ.

テロリズムは民主主義的国家観においては悪だ.
対話や普通選挙を基盤に意志決定すべきとする民主主義に基づけば,暴力や恐怖を背景にした意思の表明は前時代的だ.テロリズムの語源がフランス革命時に当時の権力者が遂行した暴力を背景にした恐怖政治に由来するのが正しいとしたら,当時のテロリズムは政権側にあったわけで,現代からみれば,政権=善,権力外にいるテロリスト=悪という見方も,今だけに通用する考え方だろう.今でも存在する恐怖政治的な独裁国家や軍事政権は,フランス革命の時代と同じようなテロリズム国家と言えるだろう.

世界,つまり社会は流動的だ.
権力を手にした人たちは,その権益の維持に必死になる.民主主義が絶対的に正しいという考え方も,アラーの教えを急進的に正しいと信じることと同列だ.100年後の未来の民主主義は今のものとは明らかに違う形態のはずだ.
つまるところ,お互いに「これだけが正しい」と考えることが葛藤を生み,その思想信条の維持が生存の維持と直結したところに「窮鼠猫を噛む」的なテロ行為を生むのだろうと思う.

青白いことを言うようだが,思想信条の調整や相互理解は,「国益」を調整し合う国家間外交では成し得ないのだろう.地球上には,相容れない思想信条の人たちがいて,それをお互いに受け入れ,相互不可侵のままでいる,という曖昧な関係の構築が必要なのだろうと思う.

そんなことはまちの中では当たり前にある.そして,曖昧なまま妥協し合ってやり過ごす術をまちの人たちは遂行している.
もちろん,まちの中で,それが通らないと生きていけないという事態はなかなか起こらないが,それでも各人,皆真剣だ.その拡張版が地球全体に拡がらないのは,やはり「国益」を最上位課題とする国家主義だ.

昨今,国益という言葉であらゆる政策が正当化されている.
国益を守ることが政権としての使命であると共有されているように見える.
しかし,国益とは,自己中心だ.
自己チューは葛藤を生む.そして最悪の場合,テロを生む.
国家的政策が,国益ではなく地球益になる時,世界はポジティブな曖昧さを備えて暮らしやすくなるはずだ.

まちも同じだ.
誰かが「これが絶対正しい」と言い出したら,眉に唾を付けて,「それも正しいかもね.でもこれも正しいかもよ」と一緒に酒を飲み,「両方面白いじゃん,両方成立させようよ」と語り合う方がいい.そういうまちになりたいし,そういう国であってほしいし,そういう世界であってほしいと思う.

そういう状況を生み出すのは,幸福の形は可変だ,という共通理解だろう.
つまり,わたしたちの幸せの形は,どういうものにでもなり得る,ということだ.
そういう考え方は,スポーツには元々備わっている.その場に集まった人たちでルールを変え,全員が楽しむことが追求できる.
スポーツが世界平和につながる,というのは,そういうことだろうと思う.
国益を最優先する国家間外交は平和を生み出せない.平和という状態は,思想信条の違う人たちの間に生まれる.だから, 「両方面白いじゃん,両方実現させようよ」 という対話が必要だ.スポーツはそこに必ず必要だ.(国家間競争としてのオリンピックではできないだろう.少なくとも,「日本が獲得したメダル数は〇〇!」と言っている内は.)

髙岡 敦史

WRITTEN BY

髙岡 敦史
スポーツまちづくり会社・合同会社Sports Drive 社長 岡山大学大学院教育学研究科 准教授、博士(体育科学) スポーツ経営学を専門とする研究者であり、スポーツまちづくりの現場に多く参画している。近著に『スポーツまちづくりの教科書』(2019年、青弓社)。