定点観測

期待されながら見られるという関係

教員免許状更新講習の季節.
国では廃止する方向で検討が進められているようだが,今年はまだある.

今年は,タブレットを用いたサッカー(フットサル)の集団技能に関する協同学習がテーマ.
プレーヤーは自分たちがどう動いているか分からない.有効な攻撃を図に落とし込むその場の記録も不完全だ.だから,タブレットで撮影しなければいけない.

しかし,動画を撮るのと写真を撮るのとでは,学習のプロセスが全く異なる.
動画撮影の場合,記録された動画から有効だった攻撃場面を抽出すればいいから,プレーは無意図的な偶然の産物でいい.
写真撮影はそうはいかない.事前に発揮したいチームプレーを予測しておかないとシャッターが切れないから,チーム内でどういうプレーを出すか考えておかないといけないし,意図的にプレーしないといけなくなる.加えて,写真に収めるべき場面(局面)でのプレーヤーの位置や身体の向き,顔の向きを理解しておかないと画角が決まらない.

つまり,動画はプレーを解釈することで事後的に理解に到達し,動画を説明することで表現することになる.
一方で,写真は発揮すべきチームプレーとその構造の理解が先行している必要があり,それをプレーし撮影することが表現になる.

スポーツを学ぶこととは,スポーツを理解することだ.
入り乱れ型ボールゲームの場合,攻撃と守備の集団技能の構造とそれを構成する要素を理解することが求められる.
一方で,スポーツを学ぶためには,スポーツをしてみる必要があって,その楽しさに没入することが必要不可欠だ.
プレーヤーはゲームになれば自然と楽しむことに没入してしまうが,何も考えないでボールを蹴り合うだけではサッカーのゲームにならない.意図的な攻撃と意図的な守備が拮抗することがゲームの楽しさだ.
そのプレーの意図性を強く引き出すには,「いいチームプレーを撮影して残して学習のための材料を手に入れる」という外部的な目的が必要になる.その時,プレーヤーと撮影者は協同的に学ぶ仲間として相互依存の関係にあることが効いてくる.

まちづくりを実践を通して学ぶことも同じだと思う.
わたしたちは,まちづくりの当事者(プレーヤー)でありながら,お互いに観察者(撮影者)でありたい.
当事者だけであり続けると,自身のまちづくり実践を客観視できないし,自己評価は曖昧になる.
「望ましいまちづくりとは何か」を絶えず発見し続けるために,隣の仲間と期待をもって観察し合う必要がある.
その時,「こういうまちづくり実践をしたいよね」という有効な実践の仮説(予測)を持ち,そのような実践ができた時に「この実践,いいね!」と伝えたいし,こちらも伝えてもらえるように実践したい.カメラで撮影し続けるわけではないけれど,自分のことは自分では分からないのだから,仲間に観察してもらうしかない.

髙岡 敦史

WRITTEN BY

髙岡 敦史
スポーツまちづくり会社・合同会社Sports Drive 社長 岡山大学大学院教育学研究科 准教授、博士(体育科学) スポーツ経営学を専門とする研究者であり、スポーツまちづくりの現場に多く参画している。近著に『スポーツまちづくりの教科書』(2019年、青弓社)。