定点観測

スポーツの新しい経済とは?の夢想

世の中は,有料のスポーツイベントに溢れている.
スポーツをタダでできる,あるいは極めて安価(例えばワンコイン)にできる機会の方が珍しいくらいだ.

需要と供給の関係上,一定地域内のスポーツイベントの数が増えれば増えるほど,参加費は安くなっていくはずだ.
各イベントが参加者数を満たそうとすると競争が発生し,参加障壁のひとつである参加費を下げるという方法が有効になる.一般的には,価格が下がることはスポーツ参加者にとって「望ましいこと」だと考えられている.

本当にそうだろうか?
スポーツ参加が安く済むことは,スポーツにとって良いことなのだろうか?
そしてスポーツをするわたしたちにとって良いことなのだろうか?

わたしたちは貨幣経済のシステムの中に生きている.お金がないと生きていけない.
だから,できるだけ支出は抑えたい.スポーツをすることがどれだけ好きだとしても,高いよりは安い方がいい.

貨幣による価値交換によって成立する市場原理の中で,わたしたちは「消費者」になる.
消費者にとっての値ごろ感はすでに説明可能なものになっている.里村(1997)上田(2006)によるまとめを参考にすれば,スポーツイベントの参加費は「客観的価格」として提示されているが,それとは別に,消費者は価格に関して様々な認識を総合して判断している.

スポーツ参加のための価格の認識には,次のようなものがある.
・スポーツイベントの総合的な価値の評価(知覚品質)と参加に伴って発生するコストの妥当性評価(知覚犠牲)
・それまでに出会った同類イベントの中で一番安い価格(最低観察価格)と一番高い価格(最高受容価格)とそれらの平均価格(平均観察価格)
・通常これくらいの価格だろうという見込み(通常価格)や予想(期待価格)
・実際に支払ったことのある価格(購入価格)

消費者は,これらを考慮に入れて,いくらなら妥当かという「知覚価格」を設定する.知覚品質と知覚犠牲を貨幣で換算すると見えてくる「買ってもいいかも」と思える幅は「受容価格域」と呼ばれる.受容価格域は,これ以上高いと買わないという上限値(留保価格)とこれ以下では品質が劣ると考えて購入しない下限値(最低受容価格)の間に認識される.知覚価格はこの受容価格域の中にある.

もっともらしい話だ.私もそうしているな,と経験的に思える.
すべては貨幣価値で換算される.金,金,金だ.
そんな世界で生きるわたしたちは,経済効率や経済的な効果性を重視するわがままな消費者だ.

そんな世界から脱却しようと考え出された新しい経済循環のスタイルと受け止められていることも,実は貨幣経済の中から出ていないのではないかと思える.
例えば,持続可能性への貢献という倫理性を行動として発揮するという経験価値と,商品そのものの知覚品質を総合的に判断した知覚価格が受容価格域内にあれば購入を決める,というのがエシカル消費だ.
また,ある社会課題の解決に寄与できる,ある地域を支援できるといった経験価値と,返礼品の知覚価格を総合的に判断した知覚価格と同程度の額を寄付する,というのがクラウドファンディングであり,ふるさと納税だ.

人類としての倫理的行動や社会課題の解決への寄与,地域への支援行動も,受容価格域の範囲で意思決定されるというのは,なんとも寒々しい気がしてしまう.

この感覚が青っ白いものだと分かっているし,貨幣経済から抜け出す方法を思い付いているわけではない.
しかし,スポーツイベントが社会的な倫理性や課題解決性を備えることで,参加者は「すべきこと」や「良いこと」に参加し貢献できるという価値を受け取り,イベント主催者は参加者が集まることで課題解決が促進されたり仲間が増えたりするということの間を,お金ではない何かでコミュニケーションできるといいのではないかと思う.
もちろん,イベントを開催するには多くの資源が必要になる.お金で調達できる資源はたくさんあるが,資源を提供する側にとって資源提供自体が何らかの(貨幣以外の)価値として還ってくるとしたら,お手伝いや物の無償提供(つまり,時間・労力・物の寄付),物々交換でスポーツが持続的に循環する未来が描けそうな予感がする.

髙岡 敦史

WRITTEN BY

髙岡 敦史
スポーツまちづくり会社・合同会社Sports Drive 社長 岡山大学大学院教育学研究科 准教授、博士(体育科学) スポーツ経営学を専門とする研究者であり、スポーツまちづくりの現場に多く参画している。近著に『スポーツまちづくりの教科書』(2019年、青弓社)。