スポーツと人

「障害に触れられるのが嬉しい」?パラアスリートの本音

 「相手から自分の障害について触れられるのは実は嬉しい」とパラカヌー競技で岡山からパラリンピックを目指している山田隼平選手は言います。一方、一人一人の障害の程度の違いまで深く理解してもらうことの難しさに苦悩も感じているようです。パラアスリートの心の声に耳を傾けてみましょう。

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 障害者スポーツの祭典「パラリンピック東京大会」が9月に終了した。大会期間中は、各テレビ局で様々な競技がライブ中継された為、テレビで観戦した人もいるだろう。少しでもパラスポーツに興味を持ってくれた人が増えることは嬉しい。  

 しかし、各競技のルールを知っただけでは「パラスポーツを理解した」とは言えないかも知れない。パラスポーツを観戦する上で知ってほしいのは、選手それぞれが障害という「個性」をもっているということである。

 多くの健常者は、障害を「ハンデ」と思うかもしれない。日本では「かわいそう」と哀れに思う人も少なくなかっただろう。しかし今回、多くのパラアスリートが「不便だけど、不幸ではない」とインタビューに答える姿を多く目にした。このインタビューでの言葉と実際にパラアスリートが活躍するシーンを見て、日本人の障害者に対するイメージも大きく変わったのではないかと思う。

 少し、話が脱線した。

 障害という「個性」の影響をできるだけ平等にするパラスポーツ独自のルールがある。「クラス分け制度」である。これによって障害の程度の近い者同士で公平に技を競うことができるようになるわけだ。

 

ただ、逆に障害の程度が適さないという理由で参加できない競技も出てくる。 私は、生まれつき下半身が不自由で、日常生活には車椅子が不可欠だ。今は会社で仕事をする傍らカヌーでパラリンピック出場を目指している。毎日トレーニングをしていてもなかなか期待された結果が出せないでいたある日、こんなことがあった。会社の上司から「カヌーはやめてボッチャにしたらどうか」と言われたのだ。

 ボッチャは重度の脳性まひの人のための競技で、私の障害では参加できない。パラリンピック東京大会で注目されたので、興味を持った人も多いと思う。ちなみに私の務める会社は障害者雇用に力を入れており、パラスポーツへの理解、支援も手厚い。しかし、障害のクラス分けの事まで知っている人はどれだけいるだろう?パラスポーツは競技のルールだけでなく、クラス分けのことまで知ってこそ分かる楽しみがあるし、障害への想像力を育むこともできるのだと思う。

 障害への「本当の理解」がままならないのは、スポーツに限った話ではない。例えば私は二分脊椎症という障害を生まれつき持っている。発症確率は2千人に1人と比較的高いので、知っている人も多いだろう。この障害は人によって症状の差が大きく、軽度であれば靴の底にインソールの要領で安定板を入れれば普通に歩けたり、自転車に乗れたりする。逆に重度であれば寝たきりの人もいる。

  会社で上司に自分の障害について話した時、障害名を伝えただけなのに「知ってる」の一言で会話が終わってしまったことがある。しかし、それは障害名を知っているだけであって私の障害を理解したことにはならない。

 障害の有無に限らず人とのコミュニケーションは常々大切にしているが、立場が上の人と言うこともあってか、私の声はなかなか届いてないような気がした。日ごろから多くの障害者と接している健常者とでもこういう行き違いはよくあることだ。もちろん、だからといってカヌーや仕事をやめたいなどと思うことはないのだが。

 それでもこの2、3年で障害者がメディアに取り上げられる機会は確実に増えた。個人的には民放ドラマの変化に驚いている。今までは障害者のドラマと言えば、障害を乗り越える苦労話に恋愛要素を加えたようなものがお決まりだったが、最近はかなりリアルな障害者の生活実態が生々しく描かれるようになった。人気の俳優が出演すれば多くの人が視聴し、興味を持ってくれる。これは私たち障害者へのイメージを良い意味で変えるのに有効だと思う。

 パラスポーツの大きな課題としてスタッフ不足がある。中でも選手を手助けするサポーターは必須の存在だ。多くはボランティアに頼らざるを得ないが、サポーターが1人でも増えることを切に願っている。中には興味があってもどうサポートしていいか分からず、一歩を踏み出せない人も居ると思うが、それこそ選手と直接触れ合うのが一番の解決法だ。

 人にもよると思うが、私は自身の障害について触れられると実は結構嬉しい。自分から話すのは簡単だが、相手から聞いてもらえると言うことは興味を持ってもらえているということだからだ。パラアスリートは自分の障害を受け入れた上でスポーツをやっているので、私は障害に触れることはタブーだとは思わない。そういう意味ではスポーツが個々の障害について理解してもらうためのアピールにもなっているのかもしれない。パラスポーツがさらに発展することで、真の共生社会に少しでも近づけることを願っている。