本と研究とまち
学術書を読むのは,仕事の一部でルーティンだ.
星の数ほどある先人が書いたものをすべて読み尽くすことはできないけれど,今でも年間30冊は軽く超えるから,数えたことはないけれど,研究を始めてからおよそ20年で1000冊は超えているだろうと思う.自分で買った本は一冊も廃棄していないから,すべて手元にある.
研究は,できるだけ幅広く深い知をインプットして,それらを総合して,新しいデータ(知見)と組み合わせて再編集して,新しい知を生み出す,という営みだ.
スポーツとまちの現場に居ながら色々なことを考える際にも,この一連の研究的思考はずっと動いていて,インプットがあってこそ,現場での気付きから新しい発想を生むことができる.
今の自分が考えていることからできるだけ遠いところにある知にアクセスした方が,総合・再編集した結果生まれる知の新規性は高まる(つまり,新しい発見がある)のだが,遠ければ遠いほど,総合する(自分の研究的思考に引き寄せる)のが大変になる.だから,ぽんぽん本を買って,さくさく読むという作業にはならない.いくつか読んだところで,自分に還す必要があるからだ.血肉にするにはどうしても相応の時間がかかる.
昔,仲良くさせて頂いていた先生から教わったことのひとつに「積読」というのがある.
「今すぐ読むわけではないけれど,どこかほんの少しでも引っかかる気がしたら,とりあえず買って手元に置いておきなさい.いつか必ずその本に還ってくるから.読まないといけない時にすぐ手に取れることが研究をスピードアップさせます.これを積読と言います.」
その先生から教わったことではっきり覚えているのは,このことと「『児童生徒』には間に『・』を入れなさい」ということだけだが,積読は20年来続けていて,先生の予言はことごとく当たっている.
ところが,(自分自身でポチっとしたにも関わらず)目の前に並んだ本たちを見て,ハッとした.
インプットしようとしている知の範囲が小さくなっている.画像がその証左だ.狙いを定めすぎてる,と言ってもいい.いつの間にか,効率よく知をインプットしてやろうと思ってしまっているのかもしれない.
それはきっと,スポーツまちづくりの現場から何か新しいことを発想しようという意識より,現場の課題をすぐにでも解決しなければと思う意識の方が強くなってしまっているからだろう.研究的思考が弱まり,実践的思考が強まっているとも言える.
幅広く深い知を現場の知と組み合わせて,新しい発想を生み出すことが,研究と実践の両方に足をかける者の存在価値だろうと思う.もう一度積読の精神を思い出して,本選びの範囲を拡げなければ,と思った.