定点観測

エヴァンゲリオンから,スポーツまちづくりを思う

私は生来の人見知りだ.
初対面の人にこちらから声をかけるようなことは,できればしたくない.
それほど親しくない人に電話をかけないといけない事態は,できれば避けたい.
パーソナルエリアは超絶広いから,馴れ馴れしく距離を詰めてくる人は苦手だ.
でも,
そういうことが平気でできる人を尊敬するし,うらやましくもある.
他者に近付かないくせに,寂しがり屋でもある.

(エヴァンゲリオンをしっかり観たことのある人には分かるだろう,)私のA.T.フィールドは相当分厚いんだと思う.苦手な人に対しては,物質化してるんじゃないかと思うほど鉄壁が張られる.

薄い/厚いの差こそあれ,人は誰でもA.T.フィールドを展開していると思う.
他者に対する親密さの表現が,家族と初対面の人との間で差がない人などいない.
そんな人は,誰とでもひとつになれるだろうけれど,その内,ここに在る自分が自分なのか他者なのか分からなくなるはずだ.
(「新世紀エヴァンゲリオン」の20話で主人公・碇シンジの肉体が消失し,生命な存在がL.C.Lに溶けてしまい,エヴァ初号機とのシンクロ率が400%を超えた.そんな事態だ.)

チームスポーツではよく「チームがひとつになって」という表現が用いられる.個人技能の発揮を集団として連動させ,ひとつの意思を持っているかのような集団技能を発揮することを指している.
当然,選手全員が溶け合って混ざり合って「ひとり」になることではないが,一方で,合宿で寝食を共にすることや皆揃って丸坊主にすることは,どこか美しいことと受け止められている.競技スポーツ経験者の多くは,十把一絡げに「体育会系」とラベリングされることを嫌がらない.
「選手と観客が一体となった」という表現も似ている.勝ちたいという選手の精神状態と勝ってほしいと応援する観客の精神状態が等しい(と思っている)状態に過ぎない.精神が完全に一致することはあり得ないし,「(選手と観客が)ともに闘う」なんてことは気持ちの持ちようでしかない.(そう思うことは自由だし,ファンの気持ちの持ちようとしてはあり得るだろうと思う)
いずれにしても,スポーツ界は「シンクロ率は高い方がいい」という考え方が根強くある世界だ.

まちづくりは多様なステークホルダーが参加する社会的な取り組みだから,ひとつになることは極めて難しい.むしろ,まちづくりの方向性を揃えるだけでも,各ステークホルダーのA.T.フィールドがバチバチとぶつかり,互いを傷つけあうこともしばしばだ.成功しているまちづくり事例を紐解いても「関係者がひとつになったから」なんていう説明は見たことがない.「互いに理解し合った」「調整がうまくいった」程度のことだ.

私たちは学校で他者と仲良くすることは正しいことだと教わってきたし,仲が悪いよりは良い方が生きやすいのも事実だ.しかし,この観念の延長線上に,他者と「ひとつになりたい」「ひとつになれるはず」という願い(というより呪い)があるのだろうと思う.
他者とのシンクロ率を100%にしようとすることは,私という存在のカタチを(L.C.Lのような)液体にすることだ.きっと私たちは,A.T.フィールドで私というカタチを保っていて,個性もそこからくるのだろうと思う.つまるところ,「ひとつにならなくていい」ということだ.

スポーツまちづくりは,「シンクロ率は高い方がいい」という観念を持ちがちなスポーツで,多様な人たちがいるまちをより良くしようとする無茶な取り組みなのかもしれない.しかし,スポーツまちづくりを通して,スポーツ界が「ひとつにならなくていい」という観念を持つに至ったら,それはそれでポジティブなのではないかと思っている.

髙岡 敦史

WRITTEN BY

髙岡 敦史
スポーツまちづくり会社・合同会社Sports Drive 社長 岡山大学大学院教育学研究科 准教授、博士(体育科学) スポーツ経営学を専門とする研究者であり、スポーツまちづくりの現場に多く参画している。近著に『スポーツまちづくりの教科書』(2019年、青弓社)。