私が場所を選ぶ?場所が仕事を選ぶ?
私には仕事場と言える場がいくつもある.
大学の研究室,会社の事務所,自宅の書斎,近所のスターバックスが主なところだが,基本的には,①人の視線がそんなに気にならなくて,②ネットにつながりさえすれば,どこでも仕事場にできる.
今使用しているノートPCにはSIMカードが入っていて,店舗等の無線wifiに繋げなくても通信できるから,よっぽど奥深い山中でなければ,②の条件はどこでもクリアできる.
コロナ禍で授業や会議がオンラインになってしまったから,いよいよ,ここに居なければいけないという「場所的拘束」から解放された.仕事場が自分で選べるという自由が拡がって,遠くまで行かないといけない移動コストは下がった.
元々,大学教員は裁量労働制だから,場所的拘束に基づいて労働時間が確定することはない.その自由さは性分に合っているし,起業して二足の草鞋だからいよいよ自由に動けないとやっていけないのだけど,その一方で「ノマド的浮遊」が迫ってきていて,どこか不安定さが増している気もしている.
仕事の大半はネットだけで事足りることが多くなっているけれど,人間は生物(いきもの)だから土と空気と水が必要だ.そして,風土やモノや人とコミュニケーションして生きているから,そこに風景やモノが在ることや人がそこに居るという場所性は大切だ.
ハイデガーも,そしてガストン・バシュラールも,イーフー・トゥアンも,エドワード・レルフも,中村雄二郎も,人間が特定の場所とともにある(人間は場所だ)と言い,人間と場所の関係性について論じている.
イーフー・トゥアンは,トポス(場所性)とフィリア(偏愛性)をつなげて「トポフィリア」という言葉をつくった.わたしたちは,特定の場所への特別な偏愛を本来的に持っているのだ.
ギリシャ語のトポスは「何かが喚起される場所」という意味らしい.喚起されるものとは,場所やそこで出会う人とのコミュニケーションとそこで生まれる情報(知と言うべきか)だ.
「どこでも仕事している」ように思っていたけれど,きっと,「ここが,この仕事をさせている」ということなんだろう.浮遊しているようで,仕事も場所性を持っているのかもしれない.オンライン化が拡大していくにつれ,私の中の場所への偏愛が薄らいでしまっていたのかもしれない,と反省する.これからは,ふらっと場所に引き寄せられて,そこが呼び起こす仕事をすることにしよう.
まるで田中泯が場所で踊るのではなく場所を踊るように,仕事したいものだ.(田中泯主演の「HOKUSAI」を観たいという気持ちが思い出させただけの締めの一言)