定点観測

不要不急 vs 必要至急,かみ合ってる?

前回提起した問い「スポーツも必要不可欠だ,と主張するとしたら,その理由は何だろう」について考えてみたい.

コロナ禍においてスポーツは不要不急だという主張は,感染拡大予防にとって,スポーツをめぐる人出や人流の増加が抑えるべきリスクであるということを主張しているのであって,平時においてもスポーツが不要なものであると主張しているわけではない.あくまでも,「感染予防が必要な時期に限定すると,スポーツはリスクだ」と主張しているのであり,つまり「感染予防はスポーツに優先する」ということだ.

それに対する反論は,真逆の「スポーツは感染予防に優先する」という主張になりそうだが,これは成立させることは難しい.
なぜなら,真っ向対立しようとすると,次の2つのお題を立証・論証する必要が出てくるのだが,どちらも難しいからだ.

① 感染予防が必要な時期でも,スポーツはリスクにはならない

② スポーツとの関わりのメリットは,感染拡大のデメリットよりも大きい
(=スポーツとの関わりを失うことのデメリットは,感染拡大防止のメリットよりも大きい)

①は,フィットネスクラブ等の民間スポーツ施設や,NPB・Jリーグ等における有観客試合においてクラスターが発生していないという事実をもって説明できるかもしれない.このことは東京五輪の有観客開催の根拠のひとつにされている.しかし,参加型スポーツイベントに関するエビデンスや,スポーツ外の接触誘発(観戦した帰りに飲みに行く,など)のデータが少なく,現時点では立証できない.

②におけるメリットとデメリットは,心身の健康(生死も含む)に関するものと地域・経済活動に関するものがある.しかし,スポーツと感染の間でそれぞれの功罪を比較することは,論理的にできない.
例えば,スポーツの心身の健康上のメリットとコロナ罹患者の健康上のデメリットを天秤にかけようとすると,ひとりの人間の中では「健康にいいスポーツをすることで,感染して健康を害する」とか「感染予防をして健康を害さないために健康にいいスポーツをしない」という矛盾(自己撞着)が起こる.また,違う人間の間で天秤にかけると,スポーツをしたい「A氏の健康」と感染したくない「B氏の健康」は選択不能,という穴に落ちる.
地域・経済活性化についても同様だ.ひとつの地域のスポーツによる地域・経済活性化の効果は,その地域における感染拡大によって失われる効果と比較することができるほどデータは集まっていないし,例えば,東京五輪開催による経済的効果と,現地観戦して感染した岡山県民が岡山で引き起こす感染拡大の経済的損失も,事前に引き算(つまりシミュレーション)できるほどのデータはない.

そんなわけで,スポーツは不要不急だ/必要至急だ,というふたつの主張は,スポーツそのものの価値を争っても仕方ない,ということになる.都倉俊一文化庁長官による文化芸術活動が「安らぎと勇気、明日への希望を与え」るから必要不可欠だとする声明も,同じ意味で,感染拡大防止が優先されるべきという主張と原理的にかみ合わないと言えそうだ.

もう少し引いて考えてみると,不要不急だ/必要至急だ,という両者の主張は,どちらも根っこでは「スポーツも必要だし,感染予防も必要だ」と考えているはずなのだ.都倉長官の声明でも,感染予防対策の重要性についてはしっかり述べられている.

そうだとしたら,両者は何を争っているのだろう.

それはきっと,「わたしたち人間は,『ウィルス感染の危険に晒されている最中,』どう生きるべきか」ということだろう.

これまで長々と述べてきたので,するどい読者はおよそ見当が付いているだろう.この問いは,「スポーツやアートと関わる生き方と,感染拡大を防ごうとする生き方は,どちらが生き方として重要か?」という問いにはなり得ない.言い換えれば,個人は自由に生きるべき/安全・安定な社会をつくるべき,というふたつの主張はかみ合わないのだ.
むしろ,もっと根源的な,「わたしたち人間は,どう生きるべきか」を問われていると考えるべきだろう.

確実に長くなるので,次回に続く.

髙岡 敦史

WRITTEN BY

髙岡 敦史
スポーツまちづくり会社・合同会社Sports Drive 社長 岡山大学大学院教育学研究科 准教授、博士(体育科学) スポーツ経営学を専門とする研究者であり、スポーツまちづくりの現場に多く参画している。近著に『スポーツまちづくりの教科書』(2019年、青弓社)。