定点観測

絵もスポーツも上手くできないといけないの?

私には絵心がない.
ドラえもんもアンパンマンも,思い出して描こうとすると「なんだ,この生物w」になる.

しかし,この「絵心がない」という観念は,スポーツに当てはめてみると「運動神経がない」とか「運動が苦手」ということになるのだが,そういう人に対して,スポーツを考究する人間としては「今持っている技能で楽しめばいいよ.それがスポーツだから」と言うだろう.アートとスポーツの間に,私の中でズレがあるようだ.本来,アートも自由に創作し,表現する遊びで,その楽しさを味わうことが大切だと思うが,「上手く描けないといけない」,「上手く描ける方がえらい」という固定観念が私の中にあったようだ.

昨日,小学校で図工「造形遊び」の授業を参観させて頂き,その後,大原美術館で美術教育と体育についてディスカッションするというなんとも贅沢な時間を頂いた.
小学校の授業では,子どもたちがビニール袋を用いて,本当に自由に,楽しそうにいろいろな形の表現・創作に没頭していた.ビニール袋を膨らませてポンポン遊んでいる子もいるし,ファッションアイテムにする子もいるし,セロハンテープとマジックで熱心にぬいぐるみのようなものを創る子もいるし,で,それらはすべて表現として教師から認められた.

参観しているこちらまでワクワクするような授業だったが,同時に疑問が次々湧いてくる.
「想像力と創造力が育まれているとは感じるけれど,説明できるだろうか?」
「この授業みたいに,際限なく広く造形や創作を捉えたら,もうすべての遊びが創作になり得る.それが造形遊びの単元に収まるものだろうか?」
「『きちんと学べました』と,どう説明するんだろう?」
「学習評価,採点はどうするんだ?」
「そもそも,創造性教育は学校教育に馴染むんだろうか?」

専門外だから浮かんでくる疑問かもしれない,と思っていたら,美術館での議論はまさにここがメインテーマになった.
大原美術館で展開されている様々な未就学児や小学生向けのプログラムは,一般的な図工の授業に収まるようなものではなかった.それは,五感を総動員した「感じる」体験であり,身体感覚と絵画鑑賞を結び付けるような「遊び」であり,最大限に大きな自由がそこにはあった.
そして,「できたかできていないか,は評価しません」ときっぱり.その子なりの感じ方や表現は,大人が感じ,読み取ることで受け止められ,認められる.

もし私が小学生の頃にそのような美術教育を受けていたら,「絵心がない」なんて思わないで自由に絵を描くことを楽しめるようになっていたのかもしれない.
スポーツも同じだ.スポーツの分かりやすさ(速さ,点数,回数,勝敗など)から,「勝った方がいい」,「上手くできる人がえらい」という観念は何の抵抗もなく受け入れられてしまう.プロ・スポーツやオリンピックはそれを強烈に表現し,広く拡散・浸透させるメディアだ.そんな世界からは,自由な遊びは生まれようがないのかもしれない.

髙岡 敦史

WRITTEN BY

髙岡 敦史
スポーツまちづくり会社・合同会社Sports Drive 社長 岡山大学大学院教育学研究科 准教授、博士(体育科学) スポーツ経営学を専門とする研究者であり、スポーツまちづくりの現場に多く参画している。近著に『スポーツまちづくりの教科書』(2019年、青弓社)。