無観客会場を埋めるまち
東京五輪の無観客開催が決まった.
チケットを入手していて,観戦する予定でいた人たちのため息が聴こえる.
大勢の観客の声援を浴びながら競技することを想像していた選手たちも,気持ちの切り替えをしている頃だろう.
東京五輪はテレビかネットでしか観戦できなくなった.
関係者しかいない競技場,選手やコーチ,審判の声しか聴こえない,観客席は冷たく空いている,そんな中で競技する選手たちの気持ちは如何ばかりか.
モニター越しに白熱した競い合いに固唾を飲んでいる観戦者の念は届くだろうか.
遠く離れた競技者と観戦者の間を繋ぐものは何だろう.
それはきっと,「共有している風景と経験」だと思う.
競技拠点地域,出身クラブ,出身校,故郷,友達,家族….これらは,すべて,風景(時間と空間)とそこでの経験が混ざり合った「文脈」を多く含んでいる.
「今この瞬間,誰が応援してくれているだろう・・・?」と思う時,選手は様々な風景と経験を思い出すだろう.そして,そこに登場してくる人たちの顔を思い浮かべるだろう.
「応援しているこの気持ち,彼・彼女に届いているだろうか・・・?」と思う時,観戦者は選手と交錯したあの時の風景と経験を思い出すだろう.そして,遠く離れた競技場にいる今この瞬間の選手ではなく,あの時の選手を思い浮かべるだろう.
日本人選手を愛国精神や国粋主義で応援する人もいるかもしれないが,おそらくその応援は,選手に同じ程度の精神と主義があったとしても,モニターを越えない.互いに相手を想像できないからだ.
モニターと距離を越えられるのは,風景と経験を共有し,同じ風景を思い出せる人同士だけだ.
だから,まちは大切だ.
選手がいつも練習しているスポーツ施設,ブラブラしている商店街,行きつけのカフェや居酒屋,よく利用するスーパーやコンビニは,すべてが東京五輪の競技場にいる選手と,地元の人たちを繋ぐ風景と経験の集積体だ.
かつての女子サッカー日本代表のエースが地元の駅に降り立って,こう言った.
「早く湯郷温泉に入りたい」
と.
彼女は確かに,湯郷地域の人たちと繋がっていた.
そういう選手たちが世界各国にたくさんいるなら,無観客でも白熱するだろうと思う.