定点観測

パラを迎えるためにオリを送る,お盆だけに②:問題を遠くからみる(上)

オリンピックは1984年のロサンゼルス大会以降,超巨大なビジネスだ.その規模は大きくなり続けていて,コンパクトでコスト安を謳って招致した今大会も例外とはならなかった.
オリンピックをめぐる諸問題は,スポーツの商業化と政治化を背景にしていると言われている.巨額のマネーが行き交うところには,何としてでも収益を確保しようとする意志と利権が生まれ,国民を酔わせる非日常の体験が生まれるところには,その酔いを利用しようとする政治の意志が生まれるのだろう.

昨日,東京オリンピック開催に関わる問題を思い出せるだけ挙げた.大雑把に捉えれば,それらの背景はふたつに大分できるだろう.

【商業化や政治化を背景にしていると思われる問題】
・招致に向けた首相(当時)の「アンダー・コントロール」プレゼン
・招致活動に関わる贈賄疑惑
・開催に踏み切ったことによるコロナ感染拡大リスクの増大
・競技会場の過酷な暑さを考えなかったこと

【ガバナンス&マネジメントの不全と思われる問題】
・新国立競技場の設計・建築や公式エンブレムのデザインに関わる混乱
・組織委員会会長(当時)の女性蔑視発言とその後任をめぐる混乱
・開閉会式の演出チームをめぐる混乱とその結果としての開閉会式の内容に対する批判
・感染拡大を防ぐはずのバブルの管理体制の甘さ
・スタッフ用の弁当の廃棄が20会場で13万食にも及んだ

半数は,オリンピックに古くから指摘されてきた商業化と政治化の問題のように思われる.残り半数は,大会運営に関わる問題ではないだろうか.
まずは前者から考えていきたい.

スポーツのビジネス利用(商業化)は,非スポーツの企業経営の論理がスポーツの機能や価値を歪めるところに問題化されてきた.それはロス五輪以後から始まっていたし,今でも変わらない.巨額のマネーが動くほど,その出資元からの影響はどうしても強くなり,競技の場にまで及んでしまう.ゴールデンタイムのテレビ放送に合わせて夜遅くに競技が開始されたり,放送時間に収まるようにルール変更されたりするようなことは分かりやすい例だ.
とは言え,スポーツ事業の展開には金が必要だ.十分な資金調達のできない非力なスポーツ団体は,安定的な経営も,普及も強化もできない.オリンピックは,IOCが巨額の放映権料(米テレビネットワーク・NBCは,2032年大会まで総額120億ドル(約1兆3200億円)でIOCとパートナーシップ契約を結んでいるという)をワンストップで集めてきて,非力な競技団体に分配する「護送船団方式の資金調達イベント」だ.
そのような枠組みに縛られまいとする動きが,プロ化や地域密着化による自律的な資金調達だ.

スポーツの政治利用(政治化)はさらに古い問題だ.源流は1936年のベルリン大会,世に言うナチス五輪にまでさかのぼる.当時は国威発揚とその宣伝がオリンピックに課せられた.聖火リレーのルートを逆戻りして戦線を拡大したことは,もはや政治利用というより戦争利用だ.
世界戦争への反省から,国威発揚や覇権を主目的にしたオリンピックはもはやあり得ないが,開催国・都市の国際的地位の確立は開催のねらいのひとつになっているし,開催都市の大規模再開発や経済振興などの政策を実現させるための根拠にもなっている.また,オリンピックが醸し出す社会全体のポジティブな空気を,開催を成功させた政権の追い風にして支持率を維持したり,向上させることも期待されているようだ.
こうした政治利用は,経営的に非力なスポーツ団体に対する保護(スポーツに有利な政策・法制度の整備、補助金獲得の支援,企業への橋渡しによる商業利用の促進など)をダシにして行われる.

スポーツの商業化も政治化も,スポーツがビジネスや政治の手段にされることで問題になるわけだが,商業化は新たなビジネスモデルの開発による自律的な資金調達の実現で回避できそうだ.そして,スポーツ保護をダシにした政治家による政治利用は,自律的経営の実現によって脱却できるのではないだろうか.
つまるところ,金と政治にまみれたオリンピックは,自律・自立できないスポーツ界が足元を見られていることの現れ,とも言えるだろう.

髙岡 敦史

WRITTEN BY

髙岡 敦史
スポーツまちづくり会社・合同会社Sports Drive 社長 岡山大学大学院教育学研究科 准教授、博士(体育科学) スポーツ経営学を専門とする研究者であり、スポーツまちづくりの現場に多く参画している。近著に『スポーツまちづくりの教科書』(2019年、青弓社)。