定点観測

そこのけおじさんとスポーツライフの公共性

先日,公園を歩いていると,急に後ろから「ジャマ!」と叫ばれた.
ランニング中のおじさんだった.
本格的なウェアと装備のトレイルランナーらしきコーディネートだったから,真剣にトレーニングしているだろうことはすぐに察しが付いた.

しかし,そんなに狭い道ではなかったし,道の真ん中を歩いていたわけではないから,後ろから来たあなたが避ければ済むことでは?と思ったが,怒鳴るだけ怒鳴って走り抜けていったから呼び止めることはできなかった.

まちには色々な人がいて,その人なりの固有の世界があると心底腑に落ちているから,私と他者の間で起こる理不尽な出来事に腹を立てることはあまりない.しかし,この出来事は,まちなかのスポーツに潜む問題をよく表していると思うから,しばらく頭と心を支配した.

公園は,利用者の共有地だ.
共有地のジレンマ的に考えれば,誰かが満足できるまで使うと,他の誰かは十分に使えなくなるのだが,引っ掛かっているのはそういうゲーム理論的なことだけではない.個人主義的なスポーツの暴力性についてだ.

冒頭の「そこのけおじさん」のランニングにも公共性があると思っている.
一人ひとりのスポーツライフが豊かになることは,社会にとって重要だ.
だから,そこのけおじさんのその日のランニング満足は高い方がいい.そして,公園を歩く私の行為も,(悪行のために歩いていないという意味と)まちなかでの生活を豊かにしようとしているという意味で公共性があるはずだ.公園という共有地において,そこのけおじさんのランニングと私の歩行は等価値だ.(もしそこが陸上トラックだったとしたら,そこのけおじさんのランニングが優先されるだろう)

そう考えると,そこのけおじさんが公園でのランニングを,単なる移動のための歩行よりも優先される行為だと主張しているところに問題を発見してしまう.そこが公園であることと,公園ランニングが社会的に他のどの行為よりも優先されるものではないことを考えれば,「ジャマ!」と主張することはできないはずだ.
この主張の背景には,「私のランニングは私にとって重要だ.私には公園を走る権利がある.だから他の人は私が走りやすいように道を譲るべきだ」という個人主義的スポーツ観があるように思う.

ここでいう個人主義的スポーツ観とは,私のスポーツ活動は他の何よりも重要,という考え方だ.
なぜそのような観念を持つに至ったのだろうか.

そのひとつの理由は,本格的なウェアと装備を身につけ,そこそこ高いパフォーマンスで走っている自分自身が,オリンピックに出場するようなトップアスリートになった気分になっているからではないか,と思う.
トップアスリートはいろいろな特別扱いを受ける.高い競技成績を残せばマスコミに取り上げられて称揚されるし,トップクラブに所属していれば高給取りだ.社会的に悪とされることをしでかしても謝罪すればスポーツの世界にすぐ復帰できる.
そんなトップアスリートを憧れの対象と見ている一般市民のスポーツ実践者は,わずかでも憧れの姿に近づいたら,その分だけ特別扱いを受けていいと思うのではないだろうか.そういう他者を排除していいと考えている姿は,まちなかでは暴力的だ.

そこのけおじさんにとって,久しぶりに雨の上がったこの日のランニングは貴重なトレーニング機会だっただろう.
たとえそうだったとしても,公園はみんなのものだ.その日公園にいた全ての人が久しぶりの雨上がりの公園を楽しんでいた.
そこのけおじさんを含む公園を利用する人たち一人ひとりの豊かな公園ライフは,そこにいる全員で実現させるべきものだ.利用者全員が互いの公園ライフを豊かにし合えるように,譲り合って使いたいものだ.

きっと,真のトップランナーはスムーズに歩行者を避け,颯爽とした風とともに走り抜けていくはずだ.そんな風景は,公園を歩く人たちの気持ちも清々しくしてくれて,豊かな公園ライフの要素のひとつになるだろう.この公園でよく出会う天満屋女子陸上競技部の選手たちは,全員がそういう風景を生み出してくれている.そこのけおじさんが天満屋の選手たちをモデルにしてくれることを願う.

髙岡 敦史

WRITTEN BY

髙岡 敦史
スポーツまちづくり会社・合同会社Sports Drive 社長 岡山大学大学院教育学研究科 准教授、博士(体育科学) スポーツ経営学を専門とする研究者であり、スポーツまちづくりの現場に多く参画している。近著に『スポーツまちづくりの教科書』(2019年、青弓社)。