定点観測

楽しさを創り出せるか

教育学部の実習を伴う授業で,海水浴場に通う3日間だった.
本来は,2泊3日で,地域の子どもたちも交えた実習なのだが,ご時世だから大学生だけで毎日日帰りになってしまった.

綺麗なビーチ,穏やかな海,適度な太陽と青空.コンディションは最高.
思わず駆け出して,海へざっぱーん!としたくなる場の力がある.

しかし,学生たちは,計画した通りの活動を粛々と始めた.
小学生高学年くらいを想定した活動計画「指導案」を立案するのに3週間ほどかけただろうか,その間,学生たちは教師の身体になってしまって,海水浴場という場に引きつけられて,楽しむことに没入する遊ぶ身体からすっかり離れてしまっていたのだ.いい言い方をすれば真面目なのだが,見ていてもまったく楽しくないし,一連の活動が終わった後の少しの自由時間の学生たちの楽しそうなこと.自分たちが子どもたち向けに用意したプログラムが楽しくなかったことの証拠だ.

運動・スポーツをする楽しさの中に学習が織り込まれているのが,学校の体育授業だ.
楽しさがなければ,訓練かトレーニングか,あるいは,つまらない時間を強制的に過ごさせる体罰になる.
そういう意味で,教員になっていく学生たちには,まずは自分たちで遊びや運動・スポーツ活動を楽しみ,その楽しさの本質と構造を理解し,楽しさを生み出す能力が求められる.

「身体を動かしていれば自然と楽しめる」,「スポーツは楽しいものだろう」と考えがちだが,実はそんなに単純ではない.
他者とともに楽しむには,運動の上手下手,体力の高低,ひいては運動の好き嫌いを超えて,そこにいる全員が「最高に楽しかった!」と言える運動・スポーツを創り出さなければいけない.例えば,かけっこは最初から勝てないと思っている脚の遅い子にとっては地獄だ.一般的な運動能力の中学生に公式ルールでバレーボールをさせたら,サーブは6割も入らないし,ラリーは2往復と続かない.もはやそれはバレーボールではない.

それでも,子どもたちはかけっこでわーわーきゃーきゃー言うし,バレーボールでわちゃわちゃ遊んでいるように見える.
かけっこでわーきゃー言える子どもたちは,上位になれる可能性のある子たちだ.バレーボールのわちゃわちゃは,相手のコートにボールを落としてやろうという試行錯誤ではなく,ボールをコントロールできずに偶然あちこちに飛んでいくボールに翻弄される混乱に過ぎない.ポジティブな雰囲気に見えるのは,一部の子どもたちの歓声が大きいからだ.
その後ろには,「楽しくないなぁ…」と感じている子どもがきっといて,「楽しくない」と声に出すと楽しそうな空気を壊してしまうのではないか,という圧力がそこにはある.そうして,運動・スポーツ嫌いが生まれていくのだろう.

海水浴場に足を踏み入れた時,「わーー!楽しそう!」と感じる子たちと,「海入るの嫌だなぁ」と感じる子たちがいる.どんな活動だったら,もれなく全員が「最高に楽しかった!」と感じられるだろうか.

このことを考えるためには,子どもたちの多様な感性や思考を想像する必要がある.
自分が子どもの頃にどう感じ,何を考えていたか,ということは最も身近な材料だが,これだけでは足りない.自分とは違う体力・運動能力の他者の感性と思考を想像し、理解しなければいけない.
35人学級なら,35人分の多様な感性・思考に想像が行き届かなければ,少なくとも楽しい運動・スポーツの内容は考えられないから,体育授業を仕組むことはできない.

自分たちが考えた活動を真面目にやっている学生たちを見ながら,大学教員の私たちが悩みまくった3日間だったが,学校体育はスポーツの未来を左右する場だから,重大な課題だ.

髙岡 敦史

WRITTEN BY

髙岡 敦史
スポーツまちづくり会社・合同会社Sports Drive 社長 岡山大学大学院教育学研究科 准教授、博士(体育科学) スポーツ経営学を専門とする研究者であり、スポーツまちづくりの現場に多く参画している。近著に『スポーツまちづくりの教科書』(2019年、青弓社)。