定点観測

まちの健康は誰が決める?

今や,「健康」は神のような存在だ.

かつて,ある宗教は天国や極楽浄土に行くために正しく生きよう,と説いた.
死を前提にした生がそこにあって,時として死を行動の目的にすることさえあった.

そして今,わたしたちは健康であるために生きている.
健康を前提にした生が唯一絶対的に妥当なこととしてあり,健康を行動の目的にすることさえある.
健康に関わるサービスや商品が溢れている.健康のために運動やスポーツをする人は多い.健康診断の数値に一喜一憂するし,不健康だと生活や人格が疑われることだってある.

死が身近にあった時代は,死をポジティブなこととして受け入れることで心病むことなく生きていられたのかもしれない.しかし,死が避けるべきことになった現代では,死からできるだけ遠ざかることが正しいことになった.

確かに,死は他者との交流の永遠の終わりを意味するし,天国や極楽浄土が客観的・物理的空間として実存しないことがやんわりと共有されている(観念的・概念的・社会的構成空間としては実存する)現代においては,死は生物学的死という医学的判断基準に基づいた客観的事実として実存するものになった.この客観的な事象としての死と地続きなところに,これまた医学的判断基準に基づいた客観的事実としての「健康な状態」が実在すると考えられている.健康診断で突き付けられる色々な数値は,本人が自覚しているかどうかは無関係に,外部からわたしたちの肉体や精神に,「健康」もしくは「不健康」というシールを貼り付けるようなものだ.

医学の力はすごい.
本人の感覚や意思とは全く違う次元から,ポジティブかネガティブかを評価する力を持っている.
ひと昔前までは,天国や極楽浄土の時間と生きている時間は(閻魔様のいる法廷で)分断されていた.現代では,医学によって死の瞬間と健康・不健康に生きている時間は繋げられた.医学の科学的発展が健康という客観的事実を生み出し,死をわたしたちの生きている時間に引きずり出して,ネガティブな意味を与え,避けるべきことにしたのは間違いないだろう.

医学を含む科学には,誤差や外れ値が存在し,許容される.
適量とされる酒量を越え,喫煙し続ける人の中には長寿の人もいるが,その人は外れ値とされ,医学的な過度な酒量は決まっていて,喫煙は絶対悪だ.
誤差や外れ値が0.1%だったとしても,70万人の岡山市には70人の酒飲み&喫煙の長寿者がいて,科学的には無視されている.70人という数字は,この数日の岡山市の新型コロナウィルス感染症の新規陽性者と同じくらいだが,コロナ禍においては,この人数は誤差や外れ値とはされず,医学的基準に基づいて「まだまだ危ない」と評価される.統計的に意味のある数値と科学的に無視される誤差の峻別は恣意的なようにも見えてしまう.(もちろん,新規陽性者数だけで対応策が決まるわけではない)

死はポジティブなことだ,と言いたいのではない.

わたしたちは,どう生きているかを自分自身で評価することができなくなっているのではないか,と思うのだ.
「今,私は健康的か?」という判断を,宗教に代わって台頭してきた医学という新しい神の目に委ねていないだろうか.

まちに生きるわたしたちは,まちでの暮らし方を自らの意思に基づいて決められるはずだ.
幸せ,楽しさ,喜びはわたしたちの手の中にある.
自覚として健康であることはアクティビティやバイタリティを高めてくれる.そのエネルギーはまちのアクティビティにつながる.できれば,身の内のエネルギーの量を健康診断ではなく,わたしたち自身の感覚で感じたいものだ.
身体的な健康感覚が研ぎ澄まされれば,きっとまちの健康もわたしたちの手で生み出せるだろう.

そして,本来,運動やスポーツ活動は自分自身の身体と精神の状態を強く感じることができる経験だ.
「健康のため」ではなく,「感覚を研ぎ澄ますため」のものとして運動・スポーツ活動を捉えてはどうだろうか.

髙岡 敦史

WRITTEN BY

髙岡 敦史
スポーツまちづくり会社・合同会社Sports Drive 社長 岡山大学大学院教育学研究科 准教授、博士(体育科学) スポーツ経営学を専門とする研究者であり、スポーツまちづくりの現場に多く参画している。近著に『スポーツまちづくりの教科書』(2019年、青弓社)。