定点観測

まちに入試はないけれど

大学は入試シーズン開幕.
本日は大学院入試だった.

学校に入学するためには試験が課され,一定基準以下だと入学は許されない.
学びたいことが学べる学校には,それを学べるだけの学力や資質がないと学べないというシステムだ.これから学ぼうとしている者に「学ぶ力(準備)があるか?」を問おうというのだから,よく考えてみると不思議だ.

論理的には,学びたい者は誰でも受け入れ,十分学べた者のみ卒業してもらう,という学校もあり得る.私が知らないだけで,どこかにはあるだろう.
そのような学校では,入学試験は必要ないが,卒業認定の基準を厳格に用意しなければいけない.(そうでないと,お金を払うだけで卒業資格や学位がもらえてしまうことになる.)
しかし,入試をクリアした者は誰でも卒業できるという大学は,教育機関としてはあり得ない.大学で学ぶべきことが受験時点で学び終わっているということを認めることになるからだ.

だから大学には,入口と出口の基準が両方ある.
入学者の受け入れ方針(こういう人に入学してもらいたいというメッセージ)を明文化したものが「アドミッション・ポリシー」だ.これが入学試験で受験生を評価するための基準に具体化され,筆記試験や面接等の試験内容に落とし込まれている.
出口の方針は「ディプロマ・ポリシー」だ.卒業認定・学位授与の方針(こういう人が卒業していきますというメッセージ)を示したものだ.ディプロマ・ポリシーは「いつまでに,どれほどのことを学び,どのような能力を身に付けてほしいか」という学びの積み上げ(つまり,カリキュラム)を決めている.

大学は社会の未来を担う人材を輩出することを使命と自認する教育機関だ.
輩出しようとする人材に求める能力が高ければ高いほど,ディプロマ・ポリシーは高度な内容になる.そして,卒業・修了時点で身に付けていなければいけない能力基準が高ければ,どんな教育や学習機会を提供してもそこに到達する可能性が低い人は受け入れられないから,アドミッション・ポリシーも高度になる.難関大学というのはそうやって生まれる(はずだ).

有能な人材を必要とし,育成したいのは,まちも同じだ.
しかし,移住に試験はない.誰でも自由に,どこにでも住める.

まちは多様性のエネルギーで動いている.だから,まちには寛容さが必要だ.移住試験を課して住める人を選別すると,まちの多様性は一気に低下するだろうし,そんな寛容性の低いまちに暮らしたいと思う人もいなくなるだろう.とは言え,まちの未来を担う人材がまちで育つことは必要不可欠だ.

つまり,まちは,学びたい者を誰でも受け入れ,十分学べる環境を用意する必要がある,ということだろう.まちでの暮らしに卒業はないから「ディプロマ・ポリシー」は必要ないが,どのような学びの積み上げ(カリキュラム)が必要か,は考えておくべきかもしれない.

髙岡 敦史

WRITTEN BY

髙岡 敦史
スポーツまちづくり会社・合同会社Sports Drive 社長 岡山大学大学院教育学研究科 准教授、博士(体育科学) スポーツ経営学を専門とする研究者であり、スポーツまちづくりの現場に多く参画している。近著に『スポーツまちづくりの教科書』(2019年、青弓社)。