定点観測

不要不急 vs 必要至急,スポーツは大切か?

今回は,スポーツは不要不急だ!/必要至急だ!の主張を,「スポーツはそんなに重要じゃない/スポーツは超重要」と読み替えて,価値の問題として考えていきたい.

スポーツの価値に関する研究はこれまでに膨大な蓄積があるけれど,他の事柄と価値の大小を比較するような研究はない.例えば,勉強することとスポーツすることの価値の比較や,感染拡大防止とスポーツ実施の価値の比較などだ.(きちんと考えていないけれど)おそらく比較不能だからだろう.

そうなると,感染拡大防止の価値と天秤にかけないで,スポーツそのものの価値を問うしかない.しかも,それは,スポーツと自由に関われる平時を想定したスポーツの「機能」(例えば,スポーツをすれば健康になるとか,スポーツ観戦は地域愛着を高める,など)のような次元の問いではなく,もっと根源的な,人間が人間として生きていく上での「意味」に遡るような問いだ.

つまり,コロナ禍におけるスポーツとの関わりをめぐる「わたしたち人間は,どう生きるべきか?」という問いに回答するための意味論的な論点は,

「スポーツは人類の生存や進化にとって根源的な意味を持つと言えるか?」

ということになるだろう.

人類は,先史(文字が生まれる前)から,絵を描き,音を奏で,遊んできた.
その創造活動は,生物としてのヒトが,文化的・社会的な存在としての人間であることの証拠だ.
ホイジンガは,人類を「ホモ・ルーデンス」,つまり「遊ぶ人」と呼んだ.

人類が育んできたあらゆる文化は,遊びから生まれている.
そして,社会は遊びによって培われている.
ホイジンガは次のように言う.

「それ(遊び)は遊ぶ人を完全にとりこにするが、だからといって何か物質的利益と結びつくわけでは全くなく、また他面、何かの効用を織り込まれているものでもない。それは自ら進んで限定した時間と空間の中で遂行され、一定の法則に従って秩序正しく進行し、しかも共同体的規範を作り出す。」

ヨハン・ホイジンガ,里見 元一郎 訳「ホモ・ルーデンス 」講談社

遊びは,ある利益や効能を得るためにするものではない自己目的的な活動だ.しかし,遊びは人間の主体性と秩序,規範を生み出す.
これはまさに,生きがいや自己実現のために事を成し(働き),つぎの社会を創っていく,という現代において求められている生き方に重なるのではないだろうか.遊びはこれからの人間の生き方や進化にとってメインテーマにすらなるかもしれない.

「遊んでばかりいないで勉強しなさい!」と親は言う.しかし,ホイジンガは言うだろう.「遊びなさい!さもないと文化も社会も創れないぞ!」と.
遊びは,未来を創る活動で,人類が(ヒトとしてではなく)人間として存在するための基礎だ.そして,スポーツはその遊びのひとつの形である.

さて,コロナ禍におけるスポーツとの関わりをめぐる「わたしたち人間は,どう生きるべきか?」という最初の問いに戻ろう.
前々回の「不要不急/必要至急という両主張は,真っ向対立しているわけではなく,どちらも『スポーツも必要だし,感染予防も必要だ』と考えている」という認識と,前回の「スポーツ権という基本的権利はないが,幸福追求権に含まれる」という認識を踏まえた上で,スポーツの根源的な意味を加味すると,最初の問いは,

「わたしたち人間は,感染予防しながら,どのように遊び,幸福と未来を追求するか?」

と問い直すことができるだろう.

遊びは他者や物との関係の中で生まれるが,ウィルスも密接な関係で感染する.
遊びと感染予防をトレードオフの関係と捉えてしまうと,不要不急 vs 必要至急の二項対立に逆戻りする.遊びの関係の中に感染予防をインストールするしかないだろう.

つまり,今後の望ましい人間の生き方は,
「感染予防し合う仲間と,感染予防対策が施された場で豊かに遊ぶ」
ということになるのではないだろうか.

「不要不急か必要至急か」ではないし,「遊ぶか遊ばないか」ではない.遊ぶのだ.ただし,感染を予防し合いながら.
感染予防が遊びを制限するのはセンスがない.
目一杯遊ぶために,どのような感染予防対策をすればいいか,あるいは,遊びがもっと楽しくなるような感染予防対策を考えたいものだ.

※写真は,部活動禁止で利用者がいなくなったグラウンドに咲き誇るオオキンケイギク(特定外来生物)

髙岡 敦史

WRITTEN BY

髙岡 敦史
スポーツまちづくり会社・合同会社Sports Drive 社長 岡山大学大学院教育学研究科 准教授、博士(体育科学) スポーツ経営学を専門とする研究者であり、スポーツまちづくりの現場に多く参画している。近著に『スポーツまちづくりの教科書』(2019年、青弓社)。